すみだゆかりの人物を紹介します(榎本武揚、中浜万次郎)

掲載日
2020年5月22日

墨田区で生まれた、育った、暮らしたなど、すみだにゆかりのある人物を紹介します。

榎本 武揚

画像は、銅像榎本武揚像 梅若公園(堤通2-6-10)内
生年:天保7年(1836)8月25日
没年:明治41年(1908)10月26日
職業:軍人、政治家

プロフィール

旗本・榎本円兵衛武規の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、築地海軍操練所の教授に任じられる。5年間のオランダ留学を経て、慶應3年(1867)、開陽丸の艦長に任命されたが、同年、大政奉還が行われ、時代は明治になった。武揚は、領地を没収され路頭の迷う旧幕臣のために、新政府に蝦夷地の開拓を願い出たが許可されなかったことに対し、軍艦を率いて箱館・五稜郭にたてこもって抵抗した。しかし、奮闘むなしく、明治2年(1869)降伏する。その後、投獄されるが、新政府軍参謀・黒田清隆の助命嘆願により出獄、やがて海軍の要職や逓信大臣等を歴任した。晩年は向島に屋敷を構え、悠々自適の生活を送った。

墨田区とのかかわり

晩年、向島の風光に魅かれ、向島須崎村(現・向島五丁目)で暮らしたが、その中でも向島百花園は特に気に入っており、草花を愛でながら酒のたしなむことを楽しみにしていた。その酒量は相当なもので、1日1升、「酒は米のソップ(スープ)だ。」と豪語していたが、「酒はいい心持ちになる程度がいい。」とし、わきまえた飲み方だったようだ。また、墨堤の桜の歴史を残すための「墨堤植桜碑」に揮毫するなど、向島の地に大きく貢献した。
明治41年(1908)、向島の屋敷で没す。
当時、武揚は馬で木母寺(現・梅若公園)あたりまで散歩したことにちなんで、公園に銅像が建っている。

参考文献

墨田区史跡説明版設置箇所案内(墨田区教育委員会、1971)
榎本武揚と明治維新-旧幕臣の描いた近代化- 黒瀧秀久/著(岩波書店、2017)
古文書にみる榎本武揚ー思想と生涯ー 合田一道/著(藤原書店、2014)

中濱 万次郎(ジョン・万次郎)


画像は、パブリックドメイン
生年:文政10年(1827)1月1日
没年:明治31年(1898)11月12日
職業:

プロフィール

高知県足摺岬近くの漁村、中の浜で漁師・悦助の次男として生まれる。少年期、父が病死し、また兄が病弱だったため、家計を支えるために漁師になる。14歳の時、仲間と漁に出るが、時化に遭い、漂流、無人島にいたところをアメリカの捕鯨船に救助される。その時の船長ホイットフィールド氏は万次郎の俊敏さを見抜き、アメリカで数学や航海術などを学ばせた。24歳の時、10年ぶりに帰宅したが、万次郎を待ち受けていたのは、鎖国、そして黒船来航だった。幕府は外国との交渉に向けて、万次郎から海外事情や航海上の最新知識など多くの知識を得た。その後は軍艦操練所教授や開成学校(洋学の研究・教育機関)教授を歴任し、明治3年(1870)、欧州出張を最後に公の場から退いた。

墨田区とのかかわり

14歳で漁に出た時、時化に遭い、アメリカの捕鯨船に助けられた縁で、アメリカで航海術等を学ぶ。帰国後、幕府に海外事情等伝えることとなり、その場で幕府幹部であった伊豆韮山代官・江川太郎左衛門と出会うことになる。当時、江川は黒船来航時の交渉役を担っていたため、万次郎を通訳者に考えていたが、老中等の思慮によりその大役は果たせなかった。しかし、江川との関係はその後も続き、江川の江戸屋敷に住んで、後の要人となる榎本武揚や福沢諭吉たちに英語や航海術等を教えたりした。27歳の時、本所亀沢町に道場を持つ剣術師範団野源之進の次女・団野鉄を娶った後も住み続けるなど、江川家との関係は江川太郎左衛門が亡くなった後も続いた。
ホイットフィールド船長から学んだ隣人愛にまつわる逸話がある。
外食時、残った食べ物を永代橋の下にいる乞食に時々分け与え、その様子を見た役人が「乞食への憐み無用」と言ったことに対し、「人間は皆同じ、乞食になった無常の人生を悲しむのだ。」と諭したという。このような考えは当時の封建社会にはなかったものであった。

参考文献

中濱 万次郎ー「アメリカ」を初めて伝えた日本人ー 中濱博/(冨山インターナショナル、2005)
ジョン・マンと呼ばれた男ー漂流民中浜万次郎の生涯ー 宮永孝/著(集英社、1994)
私のジョン万次郎ー子孫が明かす漂流の真実ー 中浜博/著(小学館、1994)

著作

中浜万次郎集成 川澄哲夫/編著(小学館、1990)

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