成島柳北(すみだゆかりの人物を紹介します)

成島 柳北(なるしま りゅうほく)

成島柳北肖像写真
画像は、国立国会図書館「近代日本人の肖像」(外部リンク)より
生年月日:天保8年(1837)2月16日
没年月日:明治17年(1884)11月30日
職業:奥儒者、ジャーナリスト、文学者

プロフィール

 奥儒者・成島稼堂(かどう)の子として浅草御厩河岸(現・台東区蔵前)で生まれる。(養子との説もある。)成島家は代々将軍の侍講(学問の講義をする役職)や歴史編纂を業とする家柄。「柳北」の号は、柳原の北(向柳原/現在の台東区浅草橋あたり)に住んだことから称したといわれる。
 安政元年(1854)侍講見習に任ぜられ、『徳川実紀』(十代将軍・徳川家治までの治績をまとめた江戸幕府の正史)の校閲に従事する。同3年(1856)に侍講を拝命し、文久3年(1863)まで7年にわたり将軍・徳川家定、徳川家茂に仕える。安政4年(1857)頃から柳橋の花街に出入りするようになり、同6年(1859)『柳橋新誌』初編(外部リンク)を執筆。幕末期は陸軍士官、外国奉行、会計副総裁などの要職を歴任。維新後は「天地間無用の人」(「濹上隠士伝」(『柳北全集(外部リンク)』収録)より)と自称し、向島須崎村(現・向島5丁目40番、言問小学校敷地内)に隠居した。
 明治4年(1871)に『柳橋新誌』第二編(外部リンク)を執筆、同7年(1874)に刊行。同年『朝野新聞』の社長に就任。ジャーナリストとして活躍するかたわら、自作の漢詩を発表するなど漢詩人としても名を広める。同10年(1877)詩文雑誌『花月新誌』を発刊し、同17年(1884)までに155号を発行した。

墨田区とのかかわり

 明治元年(1868)向島須崎村に隠居し、「松菊荘」と名付けた。この屋敷は池や沼に海棠の花が咲いていたことから「海棠園」とも呼ばれた。実業家・大倉喜八郎らと共に墨堤の桜の再生に関わり、同16年(1883)に1,000本の植樹を行った。同17年(1884)持病の肺結核が悪化し自邸にて逝去。長命寺(向島5丁目4番4号)に肖像レリーフのついた「柳北仙史之像」の記念碑が建つ。

参考文献

著作

関連リンク

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掲載日:2022年3月3日