富田木歩(すみだゆかりの人物を紹介します)
富田木歩(とみた もっぽ)
画像は、『富田木歩全集ー決定版ー』(世界文庫、1964)より、23歳の写真
生年月日:明治30年(1897)4月14日
没年月日:大正12年(1923)9月1日
職業:俳人
プロフィール
本名は一(はじめ)。2歳の時、病気で両足の自由を失う。小学校にも行けず、「いろはがるた」や「めんこ」などで文字を覚えたという。度重なる洪水被害や父の死去などにより生活が困窮。生活苦の中、俳句誌「ホトトギス」を知り投稿を始める。最初の俳号は「吟波」。木製の義足を作って歩こうとして失敗したことから、のちに「木歩」と号するようになる。
大正4年(1915)自宅に「小梅吟社」の看板を掲げ、近所の俳友と句作を楽しむようになる。「やまと新聞」の俳壇の選者・臼田亜浪に師事。同6年(1917)俳誌「茜」を主宰する同い年の新井声風と知り合い、生涯の友となる。俳句界での存在が確かなものとなっていった一方、結核で弟・妹を相継いで失い、自身も感染する。両足の不自由に加え、結核の苦しみにあえぎながら、句作、評論で活躍。『木歩句集』、『一人三昧』などを発表。
26歳で亡くなるまでにおよそ二千の句を作った。
墨田区とのかかわり
本所区向島小梅町(現・向島3丁目46番)の鰻屋に生まれる。明治40年(1907)、同43年(1910)の洪水や父の死去により、生活が困窮。一家は向島近辺を転々とした。大正3年(1913)に向島中ノ郷の叔母の家に移り、翌年その裏の長屋(現・向島3丁目45番)で駄菓子屋を開き、「小梅吟社」の看板を掲げた。自身の結核感染や母の病のため、同8年(1919)に姉の住む向島須崎町の弘福寺そばの家(現・向島5丁目2番)に転居。その後、寺島村字玉ノ井(現・墨田3丁目6番)に転居し、貸本屋「平和堂」を開いた。同12年(1923)1月に本所区向島須崎町(現・向島2丁目9番)へ移り、貸本屋を続けるが、9月1日、関東大震災に襲われた。
震災当日、自宅にいた木歩は近所の人に助け出され、牛島神社(当時の所在地は向島5-1あたり)近くの隅田川の堤の上に避難した。木歩の身を案じてかけつけた俳友・新井声風に背負われ、猛火の中、隅田川沿いを避難。枕橋(現・向島1丁目3番)近くまで逃げたが、すでに橋は焼け落ち、逃げ場を亡くした二人は、堅い握手を交わして別れた。声風は隅田川に飛び込み九死に一生を得たが、木歩は火炎の中に消えた。
一周忌に三囲神社(向島2丁目5番)に建てられた石碑には「夢に見れば死もなつかしや冬木風」の句が刻まれている。また、枕橋北詰(向島1丁目3番)には「富田木歩終えんの地」の柱が建てられている。
参考文献
- 近代俳句(神田秀夫・楠本憲吉/校訂・注釈・解説、有精堂出版、1965)
- 底のぬけた柄杓-憂愁の俳人たち-(吉屋信子/著、朝日新聞社、1979)
- 墨田人物誌(墨田区区長室/編、1984)
- すみだゆかりの作家(墨田区教育委員会社会教育課/編、1984)
- 向島文学散歩(すみだ向島文学のまち実行委員会、2010)
著作
- 木歩句集(富田木歩/著、新井声風/編、素人社書屋、1934)
- 木歩文集(富田木歩/著、新井声風/編、素人社書屋、1934)
- 定本木歩句集(富田木歩/著、新井声風/編著、交蘭社、1938)
- 富田木歩全集-決定版-(世界文庫、1964)
すみだゆかりの人物紹介
墨田区で生まれた、育った、暮らしたなど、すみだにゆかりのある人物を紹介します。
掲載日:2022年1月21日