小林一茶(すみだゆかりの人物を紹介します)

小林一茶

小林一茶

画像は、国立国会図書館デジタルコレクション(外部リンク)『一茶発句集』(勝峯晋風/編、古今書院、1926)より
生年:宝暦13年(1763)5月5日
没年:文政10年(1827)11月19日
職業:俳人

プロフィール

 信濃国柏原(現・長野県上水内郡信濃町柏原)に農家の長男として生まれる。本名は弥太郎。継母との不和などにより15歳のとき江戸へ奉公に出るも、奉公先を転々とし苦しい生活を続けた。20代の頃、山口素堂を祖とする葛飾派の門人となり、溝口素丸、二六庵竹阿、今日庵元夢らに師事する。各地を旅しながら多くの俳人と交わり、数多くの作品を生む。
 享和元年(1801)に父が死去すると、継母・弟との間に遺産相続争いが起こり、長く争ったが、文化10年(1813)に決着。翌年生家へ戻り、遠縁の娘・菊と結婚、3男1女を設けるも妻子すべてに先立たれ、また自身も中風(脳卒中)を患う、自宅が火事に遭うなどの不幸が続く中で句作を続け、生涯に二万句以上の句を残した。
 作品集に『父の終焉日記』、『七番日記』、『おらが春』などがある。

墨田区とのかかわり

 15歳で故郷を離れてからの約35年を江戸を拠点として過ごしたが、句作や門人の指導のため旅に出ることが多く、一つの家に住み着くことはなかった。その中でも比較的長く住んだとされるのが文化元年(1804)から住んだ本所相生町5丁目(現・緑1丁目)の家である。借家ながらも梅や竹の植わった庭があり、知人や門人も多く訪れた。引っ越し直後には、次の句を詠んでいる。

  梅がか(香)やどなたが来ても欠茶碗(『文化句帖』より)

 この時期、相続争いのため何度も江戸と故郷・柏原を行き来したが、文化5年(1808)に江戸に戻ると、相生町の家は次の入居者に借りられてしまっていた。

  行年を元の家なしと成りにけり(『文化五・六年句日記』より)

 この後、相続問題に目途がつき柏原に帰郷する文化9年(1812)までは、後援者や門人の家を転々としたという。

参考文献

著作

すみだゆかりの人物紹介

墨田区で生まれた、育った、暮らしたなど、すみだにゆかりのある人物を紹介します。

掲載日:2021年3月19日