小林清親(すみだゆかりの人物を紹介します)

小林清親

小林清親
画像は、『清親 開化期の絵師』(吉田漱/著、緑園書房、1964)より(パブリックドメイン)
生年月日:弘化4年(1847)8月1日
没年月日:大正4年(1915)11月28日
職業:浮世絵師

プロフィール

 父は本所御蔵屋敷小揚頭頭取の茂兵衛、母は浅草御蔵屋敷方小揚頭・松井安之助の娘である知加子。九人兄弟の末子として本所御蔵屋敷(現・横網1丁目)に生まれる。幼名は勝之助。幼い頃から玩具を喜ばず、錦絵を与えると喜んだといわれる。
 文久2年(1862)父の死去に伴い家督を継ぎ、微禄ながら将軍家直属の武士となる。慶応元年(1865)将軍家茂の上洛に御勘定下役として従い、大坂に滞在する。同4年(1868)鳥羽伏見の戦に幕臣として参加。大政奉還後は徳川将軍家に従い静岡に移住した。
 明治7年(1874)江戸に戻り、本格的に画業を志す。河鍋暁斎・柴田是真などに絵を、下田蓮杖に写真術を、チャールズ・ワーグマンに洋画を学んだと伝わる。同9年(1876)から同14年(1881)にかけて、当時の隅田川沿いの風情を多く描いた「東京名所図」を生み出す。この頃の作品は「光線画」と呼ばれ、新感覚の風景版画を描く絵師として人気となる。
 明治14年(1881)「団団新聞」を出版する団団社に入社。錦絵ポンチシリーズ「清親ポンチ」、日清戦争に取材した錦絵漫画「日本万歳百撰󠄀百笑」シリーズなどの風刺性の強い漫画を描き活躍。晩年は版画から離れ肉筆画を主とし、大正4年(1915)69歳で世を去った。

墨田区とのかかわり

 父の役宅である本所御蔵屋敷(現・横網1丁目)に生まれ、18歳で江戸を離れるまで暮らす。維新前後は大坂、静岡などを転々としたが、明治7年(1874)27歳で江戸に戻り、生地に近い南本所外手町(現・本所)に住んだ。生涯に21回ほど転居したといわれ、墨田区内では本所若宮町、本所相生町、南葛飾郡寺島町などにも居住歴がある。
 「東京五大橋之一 両国真景」「梅若神社」「両国花火之図」「東京小梅曳船夜図」「本所通夜雪」「隅田堤の花見」「明治十四年一月廿六日出火 両国焼跡」など、墨田区内を描いた作品も多く残す。

参考文献

作品

関連リンク

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掲載日:2021年8月20日