佐原鞠塢(すみだゆかりの人物を紹介します)

佐原 鞠塢(さはら きくう)

佐原鞠塢
画像は、『園のいしぶみ』(佐原平兵衛/編集)より
生年:宝暦12年(1762)
没年:天保2年(1831)8月29日
職業:商人、文人、本草学者

プロフィール

 仙台生まれ。通称平八。天明年間(1781~89)に江戸に出て、江戸三座のひとつである中村座の芝居茶屋に奉公。10年ほど働いて蓄えた財産で、日本橋住吉町(現・中央区日本橋人形町)に北野屋平兵衛と名乗って骨董屋を開く。商才、鑑識眼に優れ、加藤千景、亀田鵬斎、大田南畝(蜀山人)ら多くの文人から愛顧を受け、商売は繁盛。文化の華開く時代に一代で財をなした。しかし、商売上の問題で咎めを受け隠居、さらに剃髪して佐原鞠塢と称する。その後、文化元年(1804)頃に寺島村(現・東向島3)に3,000坪(約1万㎡)の土地を購入し、庭園を開園。この庭園は「百花園」と呼ばれ、文人墨客が集まるサロンとなった。『群芳暦』(外部サイト)『墨水遊覧誌』(外部サイト)など数多くの著作を残し、70歳で生涯を終えた。

墨田区とのかかわり

 骨董屋をやめて隠居した先が中之郷(現・向島1丁目付近)であった。やがて向島墨堤のほとりにあった旗本・多賀氏の屋敷3,000坪を購入し、庭園を開いた。この庭園に骨董屋時代のなじみであった文人たちが集まりはじめ、文学や芸術を語る文化サロンとして利用されるようになった。当初は「新梅屋敷」、「花屋敷」などと呼ばれていたが、「梅は百花に魁(さきが)けて咲く」という酒井抱一の言葉から「百花園」と名付けたと伝わる。文政2年(1819)に園内に窯を築き、隅田川周辺の土を使った焼き物をつくり、「隅(角)田川焼」と名付けて好評を博した。また、墨堤の桜の捕植にも尽力し、隅田公園にある「墨堤植桜之碑」にそのことが刻まれている。

参考文献

著作

関連サイト

参考サイト(外部リンク)

すみだゆかりの人物紹介

墨田区で生まれた、育った、暮らしたなど、すみだにゆかりのある人物を紹介します。

掲載日:2021年12月8日