吉良義央(すみだゆかりの人物を紹介します)

吉良 義央(きら よしなか 又は よしひさ)

吉良像
画像は、墨田区立本所松坂町公園(外部リンク)(吉良邸跡・両国3丁目13番9号)内に設置された吉良上野介義央公像
生年月日:寛永18年(1641)9月2日
没年月日:元禄15年(1702)12月15日
職業:幕臣、高家(こうけ)

プロフィール

 通称・上野介(こうずけのすけ)。幕府の儀式・典礼を司る高家旗本・吉良家に生まれる。寛文8年(1668)家督を継ぎ、天和3年(1683)高家肝煎(きもいり)に任命され、朝廷への使者の任などにあたった。幕府編纂の史書『徳川実紀』に「今よりのち吉良上野介義央が勤を見習ふべし」とあるとおり、幕府から厚い信頼を得ていた。また、領地・吉良(現・愛知県西尾市)では治水工事や新田開発などを行い、領民に喜ばれたと伝わる。
 元禄14年(1701)3月14日、江戸城に朝廷からの勅使を迎えた際、勅使御馳走役(饗応役)を務める赤穂藩主・浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)に斬りつけられて負傷した。義央の横柄な態度に長矩が恨みを抱いたとする説などがあるが、原因は不明。長矩は即日切腹を命じられ、赤穂浅野家は取り潰された。
 事件の後、義央は自ら職を辞し、同年12月に家督を養子・吉良義周(よしちか)に譲って隠居。翌年12月15日未明、浅野家の旧臣(赤穂浪士)に本所の屋敷(現・両国3丁目)で襲われ、落命した。

墨田区とのかかわり

 刃傷(にんじょう)事件が起きた時点では、吉良家の屋敷は江戸城呉服橋門内(現・千代田区丸の内)にあったが、元禄14年(1701)年9月3日に幕府から新たな屋敷を請け取り、隅田川を越えた本所に移転した。屋敷は東西約73間(約134m)、南北約34間(約63m)、約8,400㎡の広さがあったという。
 同15年(1702)12月14日、邸内で年納めの茶会を催した翌日の未明に赤穂浪士による襲撃を受けた。激闘の末払暁までに、義央が首を討たれたほか家臣の死者は20人にのぼったという。
 現在、屋敷跡の一部が本所松坂町公園として整備され、みしるし洗いの井戸、吉良上野介義央公像などから、往時をしのぶことができる。

参考文献

関連リンク

外部リンク

すみだゆかりの人物紹介

墨田区で生まれた、育った、暮らしたなど、すみだにゆかりのある人物を紹介します。

掲載日:2022年1月5日