榎本武揚(すみだゆかりの人物を紹介します)

榎本 武揚

画像は、銅像榎本武揚像 梅若公園(堤通二丁目6番10号)内(外部リンク)
生年:天保7年(1836)8月25日
没年:明治41年(1908)10月26日
職業:軍人、政治家

プロフィール

 旗本・榎本円兵衛武規の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、築地海軍操練所の教授に任じられる。5年間のオランダ留学を経て、慶應3年(1867)、開陽丸の艦長に任命されたが、同年、大政奉還が行われ、時代は明治になった。武揚は、領地を没収され路頭の迷う旧幕臣のために、新政府に蝦夷地の開拓を願い出たが許可されなかったことに対し、軍艦を率いて箱館・五稜郭にたてこもって抵抗した。しかし、奮闘むなしく、明治2年(1869)降伏する。その後、投獄されるが、新政府軍参謀・黒田清隆の助命嘆願により出獄、やがて海軍の要職や逓信大臣等を歴任した。晩年は向島に屋敷を構え、悠々自適の生活を送った。

墨田区とのかかわり

 晩年、向島の風景を賞し、向島須崎村(現・向島五丁目)で隠居生活を送った。百花園を愛してよく訪れた。そこに幕末時代の将軍家の御成座敷があり、その座敷で酒を飲むことを楽しみにしていたようだ。百花園では時々詩を作っており、其角堂永機の「朧夜や、誰を主の隅田川」の句碑があったが、彼はそれを見て拙いと言った。そして酔狂のあまり短冊に、「隅田川誰をあるじと言問はば 鍋焼きうどん(おでん爛酒)」と書き、「どうだ、うまいだろう」と言って、園主に渡して大笑いしたことがある。
また、墨堤の桜の歴史を残すための「墨堤植桜碑」に揮毫するなど、向島の地に大きく貢献した。
 明治41年(1908)、向島の屋敷で没す。
 当時、武揚は馬で木母寺(現・梅若公園)あたりまで散歩したことにちなんで、公園に銅像が建っている。

参考文献

関連リンク

すみだゆかりの人物紹介

墨田区で生まれた、育った、暮らしたなど、すみだにゆかりのある人物を紹介します。

掲載日:2020年5月22日
修正:2025年7月15日