斎藤緑雨(すみだゆかりの人物を紹介します)

斎藤 緑雨(さいとう りょくう)

成島柳北肖像写真
画像は、国立国会図書館「近代日本人の肖像」(外部リンク)より
生年月日:慶應3年(1868)1月24日
没年月日:明治37年(1904)4月13日
職業:小説家・評論家

プロフィール

 伊勢国神戸(かんべ)(現在の三重県鈴鹿市)に医師 斎藤利光、のぶの長男として生まれる。本名は賢(まさる)。父は津藩(戦国武将の藤堂高虎の子孫が治める)の生まれで、母は江戸京橋の生まれであった。父は雅号を謙堂といい和歌俳諧を嗜んでいた。緑雨が11歳の時、両親と共に上京。父が藤堂家の侍医となったため、本所緑町三丁目(現在の緑小学校付近)の藤堂邸に住むことになった。緑雨という号はこの緑町にちなんだものと言われる。別名として一時期江東みどりとも称している。
 13歳の頃、後年に著名な国語学者となる上田万作と知り合い、競って新聞に詩を投書していた。18歳の時、父と親しかった其角堂永機について俳諧を学び、その紹介で仮名垣魯文に師事する。魯文の影響、コネクションの中で頭角を表し、明治22年(1889)「小説八宗」で文壇デビューを果たす。その後も「初学小説心得」「小説評注問答」などの批評、風刺、パロディに満ち溢れた文章を発表し、自他ともに認める辛辣な批評家として成長していく。明治24年(1891)には「油地獄」「かくれんぼ」を著し、小説家としての評価も得る。
 特筆すべき点として、樋口一葉の才能を評価したことがあげられる。森鴎外・幸田露伴とともに「三人冗語」の中で一葉を紹介している。一葉との交流は手紙、樋口邸への訪問等、一葉が亡くなるまで続いた。一葉は日記の中で「敵にまわしてもおもしろい、味方にするとなおおもしろそうだ」と記している。
 緑雨自身は肺結核を患い、明治37年(1904)本所横網町(現在の墨田区横網)の自宅で36歳で亡くなる。死に際し、友人の孤蝶に口述筆記させた「僕、本日を以て目出度死去致候間、此段広告仕候也」という文章を幸徳秋水の万朝報に死亡広告として掲載したことは緑雨の生来の奇人ぶりがあらわれている。戒名は「春暁院緑雨醒客居士」、幸田露伴の撰であった。

墨田区とのかかわり

 明治11年(1879)本所緑町三丁目(現在の緑小学校付近)に移り住み、現在の立川三丁目にあった土屋学校、江東小学校(現在の両国小学校)に在籍した。号の「緑雨」、別名の「江東みどり」は緑町にちなんだものである。肺結核による転地療養後、本所横網町(現在の墨田区横網)に住み、生涯を終えた。

参考文献

著作

       ※「小説八宗」「初学小説心得」「小説評注問答」…巻1
   ※「三人冗語」…巻3
       ※「青眼白頭」…巻4
       ※「油地獄」「かくれんぼ」…巻6

関連リンク

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掲載日:2023年11月16日