渡辺淳一(すみだゆかりの人物を紹介します)

渡辺 淳一(わたなべ じゅんいち)

渡辺淳一書影
画像は、『渡辺淳一のすべて』(渡辺淳一[ほか]/著、『渡辺淳一恋愛小説セレクション』編集室/編、集英社、2018)表紙
生年月日:昭和8年(1933)10月24日
没年月日:平成26年(2014)4月30日
職業:小説家

プロフィール

昭和8年(1933)、北海道空知郡砂川町字上砂川(現・砂川市)で、父・鉄次郎と母・ミドリの長男として生まれる。父は,淳一が11歳の時に数学教師に就任した。文学に興味を持つが両親の勧めもあり、医学を志す。昭和33年(1958)に札幌医科大学を卒業。整形外科医として働く傍ら、同人誌などに小説を発表していた。
 昭和43年(1968)、34歳の時、札幌医科大学で日本初の心臓移植が行われた。手術の実態を知るにつれ疑問をもち新聞、雑誌などで批判。しだいに大学にいづらくなり、昭和44年(1969)3月に札幌医科大学講師の職を辞職。同年4月に専業作家を目指し上京。作品は初期の医学を題材としたものから、歴史、伝記的小説、男と女の本質に迫る恋愛小説と多彩で、晩年まで文壇の第一線で活躍した。直木賞、吉川英治文学賞をはじめ多くの文学賞の選考委員も務めた。『失楽園』や『鈍感力』など作品名が流行語にもなった。
 平成15年(2003)には、紫綬褒章を受章し,菊池寛賞も受賞した。
 平成26年(2014)4月30日、死去。命日は、作品名より「ひとひら忌」とされている。

墨田区とのかかわり

 昭和44年(1969)4月、札幌医科大学講師を辞職し単身で上京。専業作家となるまでの間、墨田区石原の山田病院(現・山田記念病院)で働き、近隣のマンション(石原1丁目)に住んでいた。
 勤務状況は、昭和44年(1969)5月~12月は、墨田区石原の山田病院(現・山田記念病院)で週3日、昭和45年(1970)1月~10月は東向島病院(山田病院分院)で週2日であった。この山田病院での経験は、のちの作品『無影燈』などに活かされた。

参考文献

著作

関連リンク

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掲載日:2024年2月6日